昨日、「蒼き狼 地果て海尽きるまで」をテンギス映画館で見てきました。
http://www.tengis.mn/index2.php?lang=MON
見て感じたこと、すこしばかりまとめて見たいと思います。


まずなによりも、モンゴルでロケしたことがきちんと画面に反映されていて感心しました。
特に小道具、大道具、衣装などがかなり本格的に作られていて、モンゴル人にとっても違和感のない仕上がりだったそうです。
それに、モンゴルの風俗習慣もよく盛り込まれていました。
たとえば、早朝の敵襲シーンの直前、天に向かって牛乳を捧げて祈るところや、松方弘樹がアーロールを齧りながら謁見する場面、ゲル集落の生活感など細かいながらも実際のモンゴルの習慣がきちんと盛り込まれていましたね。
また、日本人俳優は皆、かなり巧みに馬を乗りこなしていてとても感心しました。
全体的に現地ロケの成果が細部にわたって表れていたように思います。


ただ、モンゴル人観客からは上映中に何度も爆笑が起こりました。
特にテムジン役の反町隆史とボルテ役の菊川玲が何年かぶりに再会して、突然ヒシッと抱き合う場面では大爆笑でした。
いや、モンゴル人はあんなふうな感情表現はしないんですよね。


ひとつはっきりと言えることは、この映画に登場する日本人の演ずる「モンゴル人」は実際のモンゴル人とはまるで異なった存在だということです。
モンゴルの話というよりは日本の戦国時代を扱った時代劇を見ているような錯覚に上映中幾度も陥りました。
そうなんです、所為振舞、感情表現など、モンゴル人ではなく、まったく日本人そのものだったのです。
だから観客はそのあまりに実際のモンゴル人からかけ離れた「モンゴル人」の一挙手一投足にショックを受けて、笑うしかなかったんだと思います。
結局のところ、この映画はチンギスハーンを題材に取ってはいますが、やはり日本人が作った「日本映画」なんですね。
モンゴル人の思い描く、あるいはモンゴル人の願うところのチンギスハーン像とは趣が大いに異なっていました。


上映中、印象的な出来事がありました。
最後列付近に座っていた年配の男性が突然立ち上がって観客に向かって、「おまえらはよくこんな映画を許しているな!よくこんなものを見ていられるものだ!」などと罵声を発し始めたのです。
ほとんどの観客はその言葉に耳を傾けることなく映画を見続けていたので、結局この老人は大声を発することを諦めてしまったようでした。
とにかくこの映画、モンゴル人にとっては(モンゴルを舞台にしているものの)あくまでも「外国映画」なんですよね。


例えば出演者全員外国語を喋っていて、日本人が一人も出てこないくせにチョンマゲ姿の侍が活躍する時代劇を日本語字幕付きで日本国内で上映されることになったら、やっぱりなんとも居心地の悪い気がするんじゃないでしょうか。
もしも衣装や美術で日本の様子をかなり正確に再現したとしても、日本人の感性に全く調和したものにするのはかなり大変なことではないでしょうか。


モンゴルでは義務教育期間中、元朝秘史をしっかりと勉強します。
当然ですよね、だって建国の祖の「歴史」なんですから。
子供から大人まで皆、チンギスハーンの歴史についてはかなり詳しいのですが、今回の映画ではかなりの部分が映画用にアレンジされていました。
上映後、モンゴル人に映画の感想を尋ねると、まず最初に出ててきた言葉は軒並み「あれは史実とは大きく違っていた」というものでした。


史実をアレンジすることは別にかまわないし、上映時間内におさめた上で映画的に盛り上がる話を組み立てるためには必須なんじゃないかとも個人的には思っているんです。
特にこの映画はもう本当にいわゆる「商業映画」なんですから。
でもね、日本人にとっては、「角川映画」であり、「商業映画」なんですけど、たかが商業映画と割り切ることができないモンゴル人が少なからずいることもまた事実なんです。
とりわけ現在のモンゴル国がおかれている状況を憂え悲しみ、危機感を募らせている人はこの日本製の「商業映画」を見てどんなふうに感じるのでしょうか。


ここ数年のモンゴル国の急激な変貌は驚くほどのものです。
ウランバートル市内では、あらゆる場所に広告が貼り付けられるようになり、続々と新しいビルが建てられようになって、社会主義時代に作られた整然とした清潔な街並みが急激に失われつつあります。
経済格差がますます大きくなり、貧困層の増大、拝金主義、物質主義の横行は目に余るものがあります。
外国資本との提携や合弁事業が加速度的に増加していますが、その実態は結局のところ自国の貴重な資源を外国に搾取されるだけなのではないかと考えているモンゴル人もなかにはいます。


今回の映画も日本とモンゴルの合作ということでしたが、出来上がったものはモンゴルの土地でロケをしてエキストラと美術・衣装などを地元で調達して作った全くの「日本映画」であるといえるでしょう。
チンギスハーン役であったモンゴル人俳優の降板劇など、売れる「商品」を作るという商業主義の大前提ゆえの当然の出来事なんでしょうが、題材がチンギスハーンであるがゆえ、事の顛末についてはモンゴルの人々の思いには忸怩たるものがあるようです。


歴史を振り返ると、とりわけ近代のモンゴル人たちの歴史はロシアと中国という大国に翻弄され、時には搾取されるものだったようです。
社会主義の時代を経験している年齢層の人々にとっては、現在のモンゴル国の置かれている状況にはやりきれないものがあるのかもしれませんね。
物は乏しくても安定した平穏な生活であったといって、昔を懐かしむ老人も少なくありません。
ただ、社会主義時代にはチンギスハーンについては表立って語ることはできなかったと聞いています。
いよいよチンギスハーンについて自由に語れる時代になったと思ったら、今度は商業主義の波に自国の祖が巻き込まれていくのは、やはり見るに忍びないのでしょう。


上映中に罵声を上げた老人の言葉、よく考えると実は映画に向けられたものじゃなかったんです。
この映画を許容しているモンゴル人同胞に向けられた怒りの言葉だったのでした。

やるせない悲しみが老人のあの言葉には表れていたように思います。